富士フイルムは写真、ヘルスケア、高機能材料などの分野で第一線を走り続けている。
これらの製品の進化を支えているのは、新たな機能や技術を実現させる材料(有機化合物)の開発と言っても過言ではない。
現在、ヘルスケア製品の材料開発の最先端にいる研究者が、これまでのキャリアとその思いを語る。
分子を設計・合成して新しい材料を生み出す
「私が学生のときに取り組んでいた“反応開発”は、化学反応を効率よく起こすための条件について研究を行うものです。分子や原子をブロックのように組み立てて化合物を完成させるのですが、その経験を活かして新たな材料の開発に携わりたいと考えていました」
そう語る彼が富士フイルム入社時に配属を希望したのは、材料開発の部署だった。希望どおりの部署に配属になり、がむしゃらに業務に打ち込むこと13年、材料開発の現場は「ゼロから物質を作る場所」だと話す。
「ここでは日々、分子を設計・合成して、新しい材料を生み出す研究が行われています。新製品の機能や性能を左右するのが材料です。ヘルスケアや半導体材料など富士フイルムグループが事業を展開する幅広い分野で、コアとなる材料を作っているという意味で、重要な拠点であると言えます」
入社当初はプリンター用インクやDVDに使われる色素の開発に2年半ほど携わった。その後、電池の材料開発に立ち上げから関わることになった。電池の容量を増やして電気自動車の走行距離を伸ばしたり、安全性を高めたりすることがゴールだった。「電気のことはよくわからない」と戸惑ったが、元来新しいことが好きな性格だから、自分でも勉強を重ねた。計4年間、電池の材料開発に向き合うなかで、その後も仕事をしていくうえで大事なことを学んだという。
「誰にも正解がわからないものを形にするには、常にチャレンジし続けないといけません。幸い、富士フイルムは新しいものを常に追求していますから、『やってみたい』という希望はいつでも受け入れてもらえる土壌がありますね」
チームリーダーとして「やり切るマインド」を意識
その後、エネルギー関連材料の開発担当を経て、2016年、彼は「動物用臨床化学分析装置」の試薬開発チームに招かれた。メンバーは自分も含めて4人。最年長ということもあり、リーダーを務めることになった。
2013年に発売された「動物用臨床化学分析装置」は、動物病院内における簡単・迅速な甲状腺機能検査を可能にした免疫診断システムだ。主に高齢の犬や猫がかかる甲状腺機能障害は、早期に的確な診断、治療を行えば快方に向かう。それまでは検査に大型の装置が必要で、動物病院は外部の検査機関へ委託するしかなかったが、このシステムによって病院内で素早く検査し、獣医師がすぐに診断できるようになった。
迅速な検査を実現させたのは、特定の蛍光物質を検出する「表面プラズモン増強蛍光(SPF)法」(図説1)という技術。抗原抗体反応を利用した免疫診断システムを世界で初めて実用化した。開発には写真フィルムの色素化合物の研究で培った技術や、「写ルンです」などの高精度プラスチックレンズ成型技術が活かされた。
多岐にわたる材料を手がけている富士フイルムには、全く異なる分野から技術を持ってきて融合させる発想が根付いている。
「必要であれば、若手の考えであろうが、別の製品の技術であろうが、適切に取り入れようという柔軟性が、この会社の魅力です。畑違いの分野を歩んできた私が招かれたのも、まさにこの組織文化のなせる技でした」
チームに課せられたタスクは、検査可能な項目を増やすため、新たな試薬材料を作ること。しかし、彼にとってグループを率いるのは初めての経験。そのうえ、最新の試薬の発売まで3か月しか残されていない状況だった。
「リーダーとしてまず意識したのは、メンバーに納期の大切さをきちんと理解してもらうことでした。ゴールから逆算して作業を進めようと開発の工程を3つに分け、3人で役割を分担して、私が全体を見ながら進めていく体制を基本にしました」
与えられた期間は3か月しかない。それでも、弱音を吐くことは一度もなかった。高い壁にぶち当たっても、目的を達成するまで工夫を重ねて挑み続ける「やり切るマインド」が富士フイルムらしさだと感じていたから、「自分たちにもできるはずだ」と思った。また、新材料を通じて新しい価値を生み出すという、この部署だからこそ味わえる幸福を、みんなと分かち合いたいという気持ちが何より強かった。
表面プラズモン増強蛍光(SPF)とは?
金薄膜に光を照射すると、近くにある蛍光粒子だけが強く光るという現象を表面プラズモン増強蛍光(SPF)と呼ぶ。この現象を利用することによって測定時の洗浄工程を必要とせず、装置の小型化や測定時間の短縮を実現した。
仮説検証を繰り返しながら新たな試薬を開発
新たな試薬で検査結果を明確に示すためには、蛍光粒子を強く光らせる必要がある。それには、材料である蛍光粒子そのものを改良するのが得策だった。
作るべき化合物はすでに決まっていたが、製品として大量生産するには、安定性と再現性を確保する必要があり、一足飛びに達成できることではなかった。
「検査対象である抗原と抗体に対して、正確に化学反応を起こす最適な粒子の条件などを見いださなければいけませんでした。実験と評価、仮説検証の繰り返しが続きました。失敗したら仮説を立て、蛍光粒子を作る液の量や種類、あるいは比率を細かく変えるという作業を何度も何度も重ねました。最終的に処方を組むまでには、やはり相当の労力を要しましたね」
時間とたたかいながらの地道な作業が実を結び、4人が開発した蛍光粒子は大量生産適性に関しても合格点を得ることができた。現在、それらの技術は、犬の交配適期指標「PRG(プロゲステロン)」測定用の試薬に取り入れられ、ペットオーナーの大切な家族である犬の健康管理に大きく役立っている。
世の中の役に立つものを自分の手でゼロから作り出したい
3人の後輩たちと3か月を駆け抜け、動物を救う新たな試薬の販売にこぎ着けたとき、一定の達成感はあった。同時に、蛍光粒子にもまだ進化の余地があると感じたと話す。
「例えば、一つの粒子の発光量をもっと増やすこともできるのでは、と思っています。発光量が増えれば光っている粒子の数が少なくても感知できるようになり、免疫診断システムの高感度化につながります」
その一方で、「さらに大きな目標にチャレンジしたい」という情熱も一層募ったという。
「今回の試薬は、もともと開発に携わっていた研究員が開発した蛍光粒子を、私たちのチームが製品化に適した形に進化させたもの。チームをまとめることでマネジメントを学べ、自分の成長にはつながりましたが、材料の研究者としてはやはり自ら新しいものを生み出してみたい。独自の化合物をデザインして、それを世の中の役に立つ製品に応用できるところまで、自分で手がけたいという思いがありますね」
頭の中には、入社後に憧れを持って見ていた先輩の輝かしい姿がある。指導員として新米の自身をサポートしてくれた10歳ほど年上の研究者は、絶えず新しいものを見つけてきて製品化を実現させていた。もちろん、先輩の仕事もすべてが成功したわけではない。うまくいかないこともあった。それでも、あらゆる手を尽くして新しい製品を生み出そうと、常に前向きで挑戦を続ける姿が、格好良く見えた。
「研究において現状維持は衰退だと思っています。ヘルスケアの分野で新しいものを作りたいという思いもありますし、今まで自分が関わったことのない領域でチャレンジしたい。」
そう言い切るのは、「ゼロから物質を作る場所」にいる自分へのプライドだろう。