富士フイルムはヘルスケアの領域で、独自の技術を駆使し、世界の人々の健康に貢献するために挑戦し続けている。
新型コロナウイルス感染症の脅威に世界が直面する中、「医療機器の提供を通じ、ベトナムの医療に貢献する」という情熱を胸に、ベトナムオフィスで奮闘する一人の駐在員がいる。その思いの源流に迫った。
「現在、私が駐在するベトナムの医療水準はいまだ高いとはいえず、地方の病院には医療器具が満足に行き渡っていません。そこに富士フイルムの先端医療機器があれば、がんの早期発見なども可能になり、亡くなる人も減らせるはず。1台でも多く医療機器を普及させ、ベトナムの医療に貢献するというのが、今の私の目標です」
そう語る彼の言葉一つひとつから、熱量の高さが伝わってくる。ベトナムに赴任して、今年で4年目。「世界を舞台に働く」という大学時代からの夢をかなえ、毎日が充実しているという。高校時代のカナダ留学が転機となり、世界へ目が向いた。大学では国際経営論を学ぶ中で、将来は仕事を通じて世界とつながりたいと思うようになった。少しでも早く海外で働きたい——そんな思いが、入社の動機となった。
「富士フイルムでは、海外トレーニー制度や海外への短期派遣制度といったグローバル人財育成プログラムがあり、若いときから海外赴任できる環境が整っているという点に魅力を感じました」
入社後、内視鏡システムを取り扱う部署に配属される。製品の需給管理を受け持った。世界中の現地法人と国内の生産工場との間を取り持ち、滞りなく製品を納めるよう尽力した。その後、事業企画などにも携わる中で、入社5年目についにチャンスが訪れた。短期派遣制度を利用したシンガポールへの赴任の話が巡ってきたのだ。
「私のいた部署では、入社4年から5年目の若手がこの派遣制度で海外へと行くというのが続いていました。『ようやく自分の番が来た!』と飛び上がるほどうれしかったことを覚えています」こうして日本を飛び出し、シンガポールという新天地へと降り立った。胸には、不安よりもはるかに大きな期待と希望があった。
シンガポールを本拠とする「FUJIFILM ASIA PACIFIC PTE. LTD.」は、富士フイルムの東南アジアにおけるビジネスの統括機能を持つ。彼はそこで、内視鏡システムの営業とマーケティングを担当し、月の半分はベトナムやタイ、マレーシア、カンボジア、ミャンマーといった東南アジア各国を飛びまわって仕事をするようになった。
「シンガポールの医療の水準は非常に高く、日本と同等以上ですが、それ以外の東南アジアの国では、まだ医療機器も十分にそろっていない病院が多くあり、国によって医療の発展度合いが大きく違うことを肌で感じました」
シンガポールでの主要な業務の一つが、東南アジア諸国の病院におけるワークショップの開催だった。当時、富士フイルムは日本政府が主導する「医療の国際展開」の一環として、日本の医師・看護師による東南アジア向けの内視鏡技術支援に参画し、富士フイルムの内視鏡製品を使用したトレーニングプログラムをほぼ毎月開催していた。彼は製品の手配、セッティング、医師のサポートから後片付けまでのすべてを、現地スタッフと必死でこなした。
無我夢中でシンガポールでの1年間を過ごし、赴任期間が終わるころ、今後需要拡大が見込まれる重要拠点であるベトナムの駐在員として赴任してほしいとの声がかかった。「次は、ベトナムか」。迷うことなく了承し、「FUJIFILM VIETNAM Co., Ltd.」(富士フイルムベトナム)へ向かった。
ベトナムで彼に与えられた新たなミッションが、メディカル部門全体の責任者。ベトナム全土を対象に、販売戦略の立案からアフターサービスの提供まで、幅広い業務を一手に引き受けることとなった。
先進国ではX線画像をデジタル化して取り扱うためのITシステムが当たり前に導入されている。デジタルデータにすることで画像の分析や画像同士の比較、保管や閲覧がスピーディーかつ容易になり、診療が劇的に効率化するからだ。しかし、ベトナムではその導入率はわずか数パーセントにすぎず、特に地方ではいまだにフィルムでX線撮影をしている病院がほとんどだった。そして、X線フィルム事業で富士フイルムは、すでに圧倒的なシェアを獲得していた。
「医療の未来は、明らかにデジタル化にある。当社もデジタル診断機器やITシステムのシェアを伸ばしていかなければなりません。しかし、“富士フイルムはX線フィルムの会社”というイメージが強かった。新規顧客獲得のためにはイメージを一新する必要がありました」
さらにベトナムでは、シンガポールで担当していた内視鏡だけでなく、一般X線撮影装置、マンモグラフィー(デジタル式乳房用X線診断装置)、IVD(血液検査などの体外診断機器)、ITシステムなど多岐にわたる製品を担当する。すべての製品について詳しく理解するためには徹底的な勉強が必要だった。
「製品の一担当者であったシンガポール時代とは違い、メディカル事業全体の先頭に立ち、40人を優に超えるローカルスタッフをまとめる立場となったことに、プレッシャーを感じました。多くの人間を率いて物事を前進させるにはどうすればいいか、非常に悩みましたね」
ベトナムに来て、一つ気づいたことがあった。
「首都ハノイの大病院には、朝6時から患者さんが行列を作っていたり、病床も足りず一つのベッドに患者さんが2人寝ているようなこともざらにあります。一方、医療機器や技術が十分ではない地方病院には患者さんが集まらず病院経営が困難な状況でした」
地方の病院に医療機器を行き渡らせることができれば、患者さんには、わざわざ首都の病院に来てもらわなくても、それなりの環境で医療を提供できると考えた。内視鏡やX線診断装置、マンモグラフィーといった富士フイルムの誇る先端医療機器を広めるほど、ベトナムの医療環境はレベルアップするはずだ。
「富士フイルムの医療機器事業を通じて、ベトナムの人々の健康を少しでも支えたいと強く感じました」
とはいえ、そのためには医療機器メーカーとしてのブランド認知を強化する必要があった。内視鏡システム以外の医療機器の販売も、そして組織のマネジメントも素人同然の自分が、果たしてどこまでできるのか、不安が大きかった。
「これまでの人生で最大のチャレンジでした。学ぶべきことは膨大で、越えねばならないハードルが数多くありました」
千里の道も、一歩から。異動して半年は、とにかく知識の吸収に努めた。テキストやインターネットを通じた学習に加え、病院に足を運び、担当者に頼み込んで医療機器がどのように使われているのか教えてもらうなど、業務についてとことん学んだ。
「現場の声を一つひとつ拾い上げ、病院や会社で実際に何が起こっているのか必死に情報を取りにいきました。そして、それらの情報をもとに組織改革を実行したのです」
X線フィルム中心の従来の体制を刷新し、診断機器販売に特化した専門チームを新たに作った。現地で名の知られた機器販売の営業スタッフをヘッドハンティングするなど、新たな体制を構築した。また、現地法人のスタッフにも、代理店に販売を委ねるだけではなく積極的に現場に足を運び、オーナーシップを持ってしっかりプロジェクトを推進・管理するよう、意識改革を促した。
そんな時代に支えとなったのは、自ら掲げた信念だった。
「すべては、ベトナムの医療をよりよく変えるため。何があってもその軸だけはぶらさずに歩んできたからこそ、あきらめず走り続けることができたのだと思います」
営業活動にフェーズを移してからも、彼はとにかく病院を回り、そこで得た情報や顧客の要望から販売方法の改善を続けた。情報を得て、改善し、新たな提案を作る。その地道な繰り返しにより、ベトナムでの営業のカンが磨いていった。
また、地方の病院回りにも同行し、医師や技師との接点を意識的に増やした。デモ活動やワークショップへの参加の機会を多く作るとともに、「医療貢献」というビジョンを示し続けた。
「医師ではない私たちは、直接医療に関われません。しかし、最先端の医療機器をベトナムに普及させていくことならできます。私たちががんばるほど、ベトナムの医療はよくなっていく。だから、スタッフにも『誇りと使命感を持って仕事をしてほしい』と、強い信念を持って働きかけ続けました」
そんな彼の思いと情熱は、しだいに周囲へと伝わり、組織の成長へとつながった。それがもっともよく表れたのが、コロナ禍におけるモバイルX線撮影装置の大量受注だった。隔離された患者のもとへ機器を簡単に移動させることができるため、感染拡大を防ぎつつ肺のX線撮影を行うことが可能な製品だ。
「それ以前から、私たちのモバイルX線撮影装置を、いくつもの病院にこつこつと納め、現場で評価していただいていたからこその大量受注だったと考えています。受注をまとめてきてくれた営業チーム、そして病院で導入作業に当たったエンジニアチームは、新型コロナ感染のリスクがある中でも自らの意思で病院へと赴き、役割を果たしてくれました。その熱意がなによりうれしかった。通常の年間需要の5倍近くにもなった注文をこなすにあたっては、東京本社や生産工場のサポートも受け、“オール富士フイルム”で対応した結果、なんとか納品にこぎつけ、医療現場の期待にこたえることができました」
赴任して4年。業績は着実に伸びており、競合の欧米メーカーがひしめく中、ベトナムの医療機器市場におけるシェアも上昇している。
「若いときから海外で大きな仕事が経験できているというのは、非常に恵まれたことだと感じています。富士フイルムには、若手でもどんどん新たなことにチャレンジさせてくれる風土があります。世界が新型コロナウイルスの脅威にさらされている状況ですが、自分たちができることにまずは取り組んでいきたい。最先端の医療機器をベトナムに広め、現地の医療に貢献すべく挑戦し続けたいです」
日本からベトナムへ。さらに、世界のどこかに待っているまだ見ぬ活躍の舞台へ。今後も、彼の挑戦は続く。