2018年、富士フイルムは、インクジェットデジタル印刷機「Jet Press」シリーズの
新ラインアップとして「Jet Press 750S」を新たに発表した。
毎時3,600枚という世界最速印刷*1と、オフセット(アナログ)印刷を凌駕する高画質を誇る、最先端のインクジェット印刷機だ。
初号機の発表から約10年。印刷の常識を塗り替え続けてきた「Jet Press」シリーズの立ち上げメンバーとして、
印刷機の進化に貢献した一人の開発者に、プロジェクトの過程で経験したことやチャレンジについて聞いた。
実験室を一から作り、「高速」「高画質」「大サイズ」実現へ
富士フイルムは2008年、新型インクジェットデジタル印刷機「Jet Press 720」を発表した。「Jet Press 720」はプリントヘッドを一列に並べて印字幅を拡大させ、1回の走査で印刷するシングルパス方式*で描画することにより、大きなサイズの印刷用紙への高速印刷を世界で初めて可能にし、オフセット印刷を凌駕する高画質を実現した。「Jet Press 720」の登場は、「デジタル印刷機は、画質が悪くて遅い」という業界の認識を一変させ、世界の印刷会社に大きなインパクトを与えた。
世界の常識を変える製品を立ち上げるという一大事業に製品の顔料インク開発のプロジェクトメンバーとして携わった彼女は、プロジェクト始動当時のことを次のように語る。
「顔料を使ったインクの開発経験がないメンバーがほとんどでした。また、インクジェット用のインク開発もほとんどやったことがなかったので、できあがったものを評価する方法や、実験環境などから一つずつ作り上げました。全くのゼロからのスタートでしたね」
シングルパス方式とは?
記録媒体(用紙)に対してヘッドを1回だけ走査させて印刷を完成させる方法。印刷スピードが要求される業務用印刷に向いている。
めざすインクジェット印刷に最も適した分散剤の設計に着手
彼女は学生時代、物理化学の研究室に所属し、色材(色の原料となる化合物)について研究。富士フイルム入社後は色材粒子を液体中へ分散させたり、粒子がバランスよく分散している状態を長期的に保つための「分散技術」(図説1)などの要素研究を行うなど、インクと近い距離にいた。そして入社5年目、彼女は新たに設立された最先端のマーキング技術・製品の開発に取り組む研究所に配属された。研究対象の一つにインクジェットがあり、それをきっかけに新規事業に参加することになったのだ。
「富士ゼロックスやアメリカのFUJIFILM Dimatixなど、複数のグループ会社の技術と知見を集結したこの一大プロジェクトの目標は、オフセット印刷を凌駕する高画質の仕上がりを、高速で実現できる産業用のインクジェット印刷機を完成させることでした。そのために、液状のインクを用紙に飛ばすインクジェットの領域で、先駆的な技術の構築が求められました。私が担当したのは、インクに用いる色材分散液の品質をいかに上げるか、という課題です。インクの原料となる液体の中には、顔料という色材の粒子が存在しています。100nm前後、つまり0.0001mmという非常に小さいサイズで分散している必要があるのですが、時間が経つと複数の粒子が寄り集まって塊になり沈んでしまいます。そんな状態ではヘッドのノズルが詰まってしまい、印刷できません。インクの特性を安定させるには分散剤が不可欠なんです。でも、分散剤にもさまざまな性質のものがあります。自分たちがめざすインクジェット印刷の水準に最も適した分散剤を選び出すことと、分散方法の確立に、とことんこだわる必要がありました」
インクにおける分散剤の役割とは?
インク液内にある顔料粒子は、寄り集まって塊になると、重さにより沈んでしまう。インク液体内で粒子がバランスよく分散している状態を安定的かつ長期的に保つ働きをするのが「分散剤」。粒子表面に吸着して、粒子同士を反発させるものなどがある。
富士フイルムならではのプレコート液の機能を生かす
当時、印刷業界では多種多様な印刷物を少量ずつ印刷できるデジタル印刷に注目が集まっていたが、画質が課題となっていた。富士フイルムは、インクジェット専用紙ではない一般的な印刷用紙にも高画質に印刷するために、「プレコート液」を用いたユニークな技術を開発した(図説2)。プレコート液を下塗りした上にインクを噴射すると、インクが着弾した瞬間にプレコート液と反応し、インクの中の顔料粒子の動きがブロックされる。すると、次々と噴射されるインク滴がお互いまじり合わず、色ムラを防ぐことができる。
「プレコート液とうまく反応するインクにするためには、顔料の粒子をどのように分散させるべきか ―― グループメンバーと意見を交わしながら、分散剤の選定や分散方法を固めていきました」
ともにインク開発に取り組むほかのメンバーとアイデアを出し合いながら、分散機と向き合う日々が続く。実験を重ねてもなかなか目標の性能が得られず、苦闘した。それでも、有機材料研究のエキスパートや、複雑な現象の原因やメカニズムを分析する解析のプロなど、社内の仲間たちの協力を得ながら、方向性を一つずつ固めていった。
「開発過程では想定した結果が出なくて、心が折れそうになることももちろんありましたが、どうして駄目だったのか、課題をチームで一つずつ検証していきました。あきらめず挑戦し続けられたのは、『他社にはできないものを絶対に作り上げるんだ』『世の中の印刷機の概念を変えてやろう』というメンバー全員の熱意があったから。チームの結束力で、なんとか完成にたどり着くことができました」
今日まで続く、「Jet Press」シリーズのユニークな性能。とりわけ世界を驚かせた「高速」「高画質」には、プレコート液を最大限に生かし、色ムラのない安定した印刷を実現するための可能性を極限まで追求した分散技術が貢献している。
プレコート液を使った高画質印刷とは?
プレコート液を下塗りした上にインクを吐出することで、プレコート液とインクが瞬時に反応し、インクの中の顔料の動きをブロック。これにより狙った位置に独立したドットを形成でき、高画質描画を実現できる。
各々の知見や発想をつなぎ合わせ形にしていく環境が、革新を生む
そして現在。彼女は同じインクの領域で、新たな可能性に向かって挑戦し続けている。これまで積み上げてきた知見を生かし、さまざまな産業分野で活用可能でインクジェットの領域をさらに広げる最先端インクの研究開発に取り組んでいるのだ。
「Jet Press 720」の開発過程で実感したとおり、技術革新は決して容易ではない。それでも、試行錯誤を重ねる日々は掛け値なしに充実している。
「学生時代に富士フイルム社員の方が研究室に来て、技術講義などを行ってくださる機会がありました。そのとき、『研究に意欲的に取り組んでいる会社なんだな』と感じて、『この会社で働きたい』と思ったんです。実際、あのときの直感どおりで、社員の誰もが『最高品質』という目標に向かって常に努力を怠らない。毎日が刺激的です」
さまざまな分野にスペシャリストがそろい、それぞれの知見や発想をチームとしてつなぎ合わせて形にしていく社風がある。だからこそ、富士フイルムは世の中を驚かせるものを次々と生み出し続けてきた、と彼女は語る。
「自分自身が成長していくためには、何かを実現したいという強い思いと、努力を惜しまない姿勢が必要。富士フイルムにはそれにこたえるだけの体制が整っています。私はこれまで育児休職を2回取得していますが、ライフステージが変わっても、『仕事を頑張りたい』という気持ちがあれば、キャリアアップは可能です。だからこそ、常に前向きな姿勢で新たなことに挑戦し続けようと思えるんです」
これまでの歩みを振り返りながら、「これからも、富士フイルムのチームワークで、お客さまをアッと言わせる高品質な商品やサービスを作りたい」と話す彼女の目は、揺るぎなく未来を見据えていた。