「絶対売れるって、僕、確信したんですよ。あいつを見た瞬間に」――彼は少し恥ずかしそうにほほ笑みながら、2014年当時のことを振り返った。
現在はデジタルカメラの商品企画の仕事に携わっている彼だが、当時は欧州地域の営業担当として現地法人と連絡を取り合う毎日。そんな彼が懐かしそうに振り返る「あいつ」とは、もちろん生身の人間ではない。それは「FUJIFILM X-T1」。センターファインダースタイルのミラーレスとして新たな市場を開拓し、大ヒット商品となった富士フイルムのプレミアムデジタルカメラだ。
「僕が入社した2011年当時、それまで富士フイルムが主戦場にしてきたコンパクトカメラは市場全体で急速に需要が落ち込んできていました。最大の原因はスマホの登場ですね。スマホさえあれば手軽に人物や風景を撮影し、その場で加工して世界中の人々に発信できますし、画質もメッセージアプリやSNSで閲覧する程度なら十分ですから」
こうした状況に対して富士フイルムは、卓越した画質とカメラの原点を意識したデザインで、これまでのコンパクトカメラのコンセプトを刷新した「FUJIFILM X100」を発表。さらに彼が入社した2011年は、レンズ交換式カメラの開発という、富士フイルムにとっての未知なる分野への挑戦が始動した時期でもあった。その後、富士フイルムはプレミアムデジタルカメラ「Xシリーズ」の新機種を次々と発表していったが、一部ユーザーからの熱狂的な高評価とは裏腹に、事業メンバーの危機感は容易に拭い去られることはなかった。
「スマホが全盛の世の中にも、ハイエンドなデジタルカメラの根強いファンは、一定数います。でも、ユーザーの間にXシリーズという選択肢が根付くには、まだ時間が必要でした。理由は入社間もない僕にもなんとなくわかっていました。マニアに限らない、多くのユーザーから支持される決定版ともいうべき魅力を持つ商品がなかったからです」
こうした中、2014年2月に発売されたのが、X-T1だ。富士フイルムの創業80周年を記念し、満を持して世に出された逸品だった。
「あいつのたたずまいのかっこよさとミラーレスカメラとしての革新性は、誰にでもわかるほどでした。だから、売れると確信できた。事業部全体もX-T1の販促活動をあらゆる業務に優先して行っていましたしね。社員総出で国内外のあらゆるところに出向き、プレゼンテーションを行いました。これが売れないと大変なことになる。みんな必死だったんです」
こうして彼は、事業の運命を賭けたプロジェクトに身を投じることになるのだが、そもそもなぜ彼は富士フイルムで働いているのか。出発点は少年時代にまでさかのぼる。
「小学校6年生のときに親父の転勤でアメリカのオハイオへ。帰国子女として日本の大学に入学しました。英語は堪能でしたが、だからといって英語力を生かして外資系企業に入りたいとはあまり思わなかった。むしろ外国での生活で衝撃を覚えたのが、“Made in Japan”の製品がクオリティーの高さで人々の生活に根付いていることでした。それが根っこにあり、日本でモノづくりに携わりたいと強く思うようになったんです。また、大学時代に流行し始めたのがSNS。誰よりも良い写真を投稿して『いいね』をもらおうと、高価なデジタルカメラを購入してさまざまなシーンを撮影していました。こうした経緯もあり、富士フイルムに入社してデジタルカメラのビジネスに関わることになったんです」
その後、FacebookやInstagramと次々新しいSNSが流行したが、彼は仕事の合間を見つけては撮影に繰り出し、お気に入りの作品を発信し続けた。さらにカメラメーカーの社員という利点を生かし、一般のユーザーがあまり使わない機能や機材を駆使したり、膨大な数のプロの写真家の作品と向き合うことで、写真・カメラの知識、表現方法に磨きをかけていった。
こうした中ではっきりと見えてきたのが、スマホではなくデジタルカメラで撮影し、プリントすることで一層際立つ、写真そのものの魅力だった。
「被写体の一瞬の表情を逃さずシャッターを切る緊張感や、期待以上に美しく仕上がったときの喜び――こうした一連の行動や感情には、単なる楽しみではなく、“文化”と呼べる深さがある。そう、僕はカメラで撮るという文化を、もっと世の中の人々、特にスマホ世代の若者に広めたくなったんです」
カメラを通じてしか実現できない写真文化を、この手でもう一度広めたい。X-T1の販売活動は、自らも写真愛好家である彼が、仕事を通じてその思いを結実させようと挑む初めての機会となった。
X-T1が発売されたのが2014年2月。その直前、彼は担当地域である欧州に赴いて販売活動を展開した。相手は大手小売りチェーンから地方のカメラ店までさまざま。1日に2~3拠点を訪問し、2週間で訪問した国々はフランス、スペイン、イタリア、イギリス、ドイツと5カ国にのぼった。彼は現地法人の担当者とともに、ミラーレスカメラが今後のデジタルカメラのトレンドになることを熱心に説いた。X-T1の機能特性もわかりやすく説明した。そして何より彼は情熱を持って伝えた、X-T1には富士フイルム80年の技術の粋が詰まっていることを。
程なくしてX-T1は日本で、世界で、生産が追いつかないほどの注文を集め、それまでのXシリーズ史上最大のヒット商品となった。同時に、欧州での彼の熱意と行動は、本社にいる上司の耳にも届いていた。帰国後すぐに、彼は欧州の現地担当者として長期にわたる駐在を命じられる。入社4年目での大抜てきだ。
「僕は一言で言って斜に構えた性格(笑)。簡単に人を尊敬したり、憧れたりするタイプじゃありません。そんな僕でも素直に尊敬できると言えるのが当時の直属の上司でした。単に頭の回転が速い、というだけではない。考えながら、スピード感をもって常に行動する。そして高いプロ意識をもって“現地・現物”を一番に考え、部下や同僚、お客さまと接する。この欧州駐在の任務は、尊敬する上司からの強い期待と受け止めました。うれしかったですね」
こうして彼は、2014年から2017年までの3年間、欧州本部のあるドイツ・デュッセルドルフを拠点に働くことになった。そこでのミッションは大きくふたつあった。ひとつは日本の本社と現地法人の仲介役。新しい販売戦略について説明してまわることから輸出手続きの確認、欧州各国のセールス担当者と小売店を訪問し、新製品のプレゼンテーションも行った。もうひとつは、現地法人の経営サポート。売上数値などを細かくチェックしながら、円滑な経営のためのさまざまな施策を、現地スタッフらとともに練り、試みた。
「嫌なことは一晩寝れば忘れてしまう性格の僕ですが、あの3年間がまったくつらくなかったといえば、嘘になりますね。現場での実績はほとんどない上、経験豊かな現地スタッフが従ってくれる役職でもない。自分には何ができるんだろう、という不安に襲われたことも数え切れないくらいありました」
そんな日々の中で試行錯誤しながら導き出した自分なりの目標が、“ナビゲーター”の役割を果たすことだった。
「研究開発者のような専門知識を有しているわけでも、セールスのプロのような現場スキルを持っているわけでもない。そんな僕が、ほかの人に比べて勝っている点がもしあるとすれば、いろんな立場の人々をつなげるコミュニケーション能力。小学6年生で突然アメリカの学校に転校になったとき、僕はすべての友達とフラットにコミュニケーションを取ることで溶け込もうと努力しましたし、社会人になってからも、相手が納得感をもって行動できるように言葉を慎重に選んで対話することを心がけてきました。さまざまな人々をつなげ、共通の方向に動き出すきっかけを作るナビゲーターとしての能力をさらに磨き、発揮することが、僕がすべき仕事だと考えるようになったんです」
どんな組織にも、考えや価値観が異なる人がいて、利害関係の衝突は絶えず発生する。国籍や文化が異なればなおさら、たくさんの人がいろんな思いを持って働いている。こうした状況で自分の立場で担える役割は、常に全体最適を目指し、気配りを大切にしながら関係者をまとめあげる人間だ――彼はそう確信するようになっていった。
また、現地スタッフの真の姿を知ることができたのも、その後の大きなプラスになったと彼は言う。「例えば日本の本社から、“今月の目標までもう一息だ、頑張ってくれ”というメールが送られる。その一通だけで現地スタッフは、一台でも多く売るために奔走してくれるんです。週末や休日も、必要であればワークショップやイベントに足を運んで接客したりと、懸命に働いてくれる。オンオフの切り替えがドライな欧州人が、ですよ。こうした現実は、日本にいたときにはまるで見えなかった。彼らもプライドを賭けて仕事に取り組んでいる。その思いを十分にわかったうえで、一人ひとりと向き合わなければいけないことを痛感しました」。
こうして、現地スタッフとお互いが納得するまで幾日も粘り強く議論したり、彼らの言い分を本社に理解してもらうべく、あらゆるつてをたどって本部と交渉したりと、徹底的に労を惜しまず手足を動かして仕事をするスタイルを、彼は身に付けていった。それはまさに、デジタルカメラのビジネスに抱いている熱い思いを、国境を超えて多くの仲間と共有していく過程そのものだった。
「毎日必死でもがいているうちに、『お前がそこまでいうなら一緒にやってみよう』と協力してくれる現地スタッフが現れ始めました。“見ていてくれたんだ”とすごくうれしかったですね。自分たちが誇りを持っているカメラを一人でも多くのお客さまに届けたい――全員が同じ情熱を持ち、組織として少しずつ前進していくのを実感しました」
2017年4月、彼は欧州市場で「Xシリーズ」の価値を伝える役目を無事果たして帰国した。新商品の企画やプロモーション活動に携わる現在の仕事内容は、新機能の開発に向けた協議から、発表間近の商品のパッケージやカタログ・取扱説明書などの作成、さらに製品発表会の企画など、実に多彩だ。
「みんな商品企画というと華々しい印象を持っていますが、仕事はとても地味な作業が大半。パッケージの制作一つとっても、最小限のコストで輸出・梱包ができるようサイズやレイアウトを調整したり、記載内容やロゴの位置を何度も確認したりと、とにかく細かいんです」
「でもね」と彼は続ける。「最近思うんですよ。こうした日々の地味な努力の積み重ねこそが、僕が入社当時に憧れていた、世界が驚く日本のモノづくりの原点だって。誠実に愚直に毎日の努力を重ねれば、いつか成果が出る。きっと誰かが見ていてくれる。それが、カメラの魅力を一人でも多くの人に伝えることに、着実につながっていくと思うんです」。
「これからもさまざまな仕事に全力で挑戦し続けたい。でも、そろそろお嫁さんも見つけないとね」。20代をデジタルカメラのために注いできた彼は、人生の次なるステップを目指しながら、富士フイルムの、そして自分自身のさらなる飛躍に向けて走り続けている。