以前の会社でも営業の仕事をしていました。営業スキルが身についてきたなという実感があったので、製品を売り込むだけでなく事業そのものを動かす仕事にチャレンジしたいと考え、転職活動を始めたときに出会ったのが富士フイルムでした。新しい事業領域に次々と進出し、しっかりと結果を出している企業という印象があり、『こういったフィールドで自分をさらに磨いていきたい』と、ここで再スタートを切ることを決意しました」
富士フイルムの中でも特に新規のビジネスを取り扱う部門に配属された彼が担当することになったのが「エクスクリア」という製品。スマートフォンなどのタッチパネルに使用する特殊なフィルムで、従来のセンサーフィルムに比べ、画面サイズが大型化しても応答速度が速く、さらに折り曲げにも強くなおかつ立体の加工も可能であるといった特性を持つ。スマートデバイスの普及に合わせて今後の需要増が期待される一方、市場に食い込んでいくためにこれからがまさに正念場というタイミング。彼は配属後いきなり即戦力として海外のお客さまへ直接エクスクリアを売り込む営業担当となり最前線で奮闘した。
そして営業担当として3年間経験を積んだ後、その実績が高く評価され彼はエクスクリア製品チームの事業全体を統括するリーダーに任命された。元々「自ら裁量を持って事業を動かす仕事がしたい」という動機から転職を決意した彼だったが、いざチームリーダーに任命された瞬間は、戸惑いがなかったわけではない。
「転職して新しいことにチャレンジしたいと考えていた自分にとって、エクスクリアの海外営業は非常に面白い仕事でした。業界を研究し、初めての海外クライアントも担当し、全く新しい製品で自ら市場を切り拓いていく。プレイヤーとして日々現場でお客さまと接して動き回っているからこそ、自分が市場開拓にダイレクトに貢献しているのだという面白みがありました。なので、エクスクリアのチームリーダーに、との話があったときは一瞬『どうしよう』と思ってしまったことも事実です。自分は営業最前線でこそ輝ける!と自信がついてきたばかりだったので。同年代の社員に人を取りまとめるのが上手なやつがいて、『チームを率いるのはアイツの方が向いてるんじゃない?』なんて思ったりもして、悩みました」
それでも彼がリーダーを引き受けることに決めたのは、彼を推薦してくれた前任のチームリーダーの想いを引き継ぎたいという気持ちだった。技術を結集して完成させたこの製品を何とか世に送り出したいと、必死にこの事業を立ち上げたその前任者であるチームリーダーの奮闘ぶりは、営業担当として彼も目の当たりにしてきた。これまで事業立ち上げに関わってきた人たちの想いを引き継いで、今度は自分がそれを一段と成長させたい。彼は意を決してチームリーダーを引き受けた。
「期待してもらったことにこたえたい、自分が事業を次のステージに進めていきたいという気持ちが強くなってきて最後は前向きに決断してましたね」
彼がエクスクリア製品のチームリーダーへ着任してから数か月。エクスクリアの受注数はタッチパネル市場の成長とともに順調に伸び、過去最高の売上高をあげようとしていた。次々と決まる契約による受注の伸びに合わせて、生産工場の設備増強の計画も進められていった。しかし、順調に見えたその最中に事件は起こった。
2016年、予想していた成長スピードをはるかに上回り、エクスクリアのオーダーが急増。オーダーに対する生産が追いつかない想定外の事態に追い込まれたのだ。オーダーが急増したことは喜ばしいことだったが、それに対応するためには、過去に類を見ない程の急スピードで、工場の生産体制を大幅に立て直す必要があった。
「エクスクリアは工程が複雑で、急増したオーダーに対して、工場設備を一から増強するという時間を要する対応では切り抜けられない切羽詰まった状況でした。かと言って、現在すでに工場はフル稼働していて、一時的に人員を増やすという解決策も取れない。残された道は、工場設備の増強が整うまでの期間、現在の設備で何とか短期間で生産効率を上げ、このピンチを切り抜ける方法を見つけ出すことでした」
彼は工場へ出向き、急ピッチで製品出荷を間に合わせなければならない状況を説明し、この困難を突破する方法をともに見出したいと工場のメンバーに訴えた。
しかし、現場には困惑のムードが漂う。
「大変なのは分かりますが、フル稼働で生産が続く中、日々のトラブル対応にリソースを割かれ現在の出荷数量を維持するのが精一杯です。営業から働きかけてお客さまには待ってもらえないのですか」
「これまで高品質を継続してきたことがお客さまの信頼へと繋がっているはずです。生産を急いで製品の品質を落としてしまうようなことがあれば元も子もありません」
従来の生産方法に大きくメスを入れることに工場メンバーは躊躇していた。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。営業現場からは、「製品の納品スケジュールはいつ決まるのか」という声がひっきりなしに届く。お客さまの要望にこたえてタイムリーに製品を納入し続けられることがこの事業の存続にとって如何に重要なことか、彼はこれまでの営業現場の経験で肌身にしみて感じていた。
「こちらの納品が少しでも遅れるとお客さまに取り返しのつかない損害を与えてしまう。もし納品できなければ、エクスクリアの良さを認めてくれたお客さまの期待をすべて裏切ることになり、これまで築きあげてきた信頼関係を失って二度と自分たちの製品を使ってもらえなくなる。事業存続に関わる危機的状況でした」
何もなかったところから市場を作り上げてきた先輩たちが築いたお客さまとの信頼関係を、自分たちの世代でぶち壊しにするわけにはいかない。
「ここであきらめてはいけない。何としても突破する策を見つけて事業を前に進めていくんだという思いでした」
生産効率を改善するための肝はどこにあるのか。具体的に何から取り組むべきなのか。彼には生産技術の知見がなく、工場のメンバーの意見や協力を引き出すことなしには一歩も前には進めない。彼は再び工場に足を運び、現場の生の声を聞こうと若手社員に声を掛けた。現場で実際どんなことがなされているか、具体的にどこを改善していくのか、従来の工程で現場が困っていることや気になっていることはないか。より具体的に現場の状況を把握することで突破するヒントが必ず見つかるはずだと、毎週のように工場現場に足を運んだ。ある日、そんな熱心な彼の姿を見ていた数人の若手社員が彼のところへやってきた。
「参考になるか分からないんですけど、この工程とそれにかかる人員を見直せば、作業時間が半減できるかもしれないです」
その後、彼を中心とした若手社員によって小規模のプロジェクトチームが結成された。彼らは本社と製造現場の橋渡し役になれるようにという意味を込めて、そのプロジェクトをBridge[ブリッジ]と名付けた。毎週工場の隅っこの会議室に集まっては、各自で私案を持ち寄って、一つずつ議論を重ねた。
「まずある一つの工程を取り上げて、どんな小さなことでもいいから自分たちのできる範囲でその工程を改善してみることになりました。チームのメンバーも工程に入って現場の意見を直接聞き、一緒になって現状のプロセスに無駄がないかを徹底的に調べあげました」
調査の結果、工程の中で作業を切り替える際に、大幅なタイムラグが存在することが判明した。その工程の効率を高めるべく、彼らはタイムラグで手が空いていた人員を別の工程に配置したり、人数を変えたり、別の作業員に交代するなどといった作業を何十回も繰り返し、新たな工程プロセスを探った。
「諦めずに作業を繰り返した結果、工程の作業時間を大幅に短縮することに繋がりました。若手数人規模の小さなプロジェクトでしたが、自分たちのアイデアと努力で工場をより良く変えていけるんだとメンバーの自信に繋がった瞬間でしたね」
彼らのそんな姿をみて少しずつ、ほかの工場の若手メンバーからも現場発のアイデアが集まってきた。会議では発言できず埋もれていた現場のアイデアや、以前から気になってはいたが取り沙汰されずにいた工程の改善点など、良いことも悪いこともより多くの本音の意見が集まるようになってきた。
彼とプロジェクトメンバーたちは次々と集まった現場発のアイデアを組み合わせ、工場全体の生産工程を抜本的に見直すプランを練り上げていった。できあがったプランをアクションに移すには、工場全体の協力が不可欠だ。自分たちに協力してくれた現場のメンバーたちの努力と思いを絶対に無駄にしたくないという強い気持ちで、彼は皆で練り上げたプランを工場の関係者たちにぶつけた。
「技術者でもない自分が、生産工程を誰よりも熟知している工場のメンバーに意見することに最初はすごく緊張しましたが、集まったアイデアを無駄にしたくない、必ず実行に移してこの事業を存続させなければと毎週覚悟を決めて工場に向かってました」
彼は生産部門の責任者たちを、クライアント先へ同行させる試みも始めた。お客さまがどのような点でエクスクリアを評価してくれているのか、富士フイルムに対してどのように信頼を寄せてくれているのか。お客さまから直接話をしてもらったことをきっかけに「信頼してもらっているお客さまのために、自分たちの力を結集してこの難題を突破しよう」という掛け声がしだいに工場内からも発せられるようになった。
「今まであまり接点が無かった担当者たちも、『君がそこまでいうんだったらお客さまのためにやってみよう』とプロジェクトを後押ししてくれるようになりました」
「お客さまにより多くの製品を届けるためにできることはすべてやろう」と若手、ベテラン、事務系、技術系関係なく一体となり、彼らが練り上げたプランが次々と実行に移された。計画したとおりの結果が出ないこともたくさんあったが、失敗から学べることもあると現場で更なる試行錯誤を重ね、彼らは最後まで諦めなかった。そして、少しずつ彼らの努力が生産効率の改善という数字で結果となって表れ始めた。
「『自分たちのアイデアによる小さな工夫の積み重ねで、工場全体、会社全体を変えていける』と、現場に自信と活気が生まれていくのが目に見えた瞬間でしたね」
そしてプロジェクト発足から数カ月後。工場担当者から彼に一報が入った。当月の稼働率が目標値を大幅に超え、事業スタート以来の数値を記録したというのだ。こうして生産工程の抜本的な改革を無事成し遂げ、お客さまの納品に間に合わせることができたのだった。
「工場から連絡が来たときは、本当に嬉しい気持ちでいっぱいでした。工場社員、営業、技術者、全員の思いが報われた瞬間でしたからね。工場はここを努力する、その代わり営業はここまで踏ん張る…。同じ目標を目指す運命共同体として、お互いの責任範囲を越えて意見をぶつけ合い協力し合うチームワークを築くことができたからこそ、このピンチを乗り切ることができたと思います。自分たちを結びつけてくれたのは、見放さずに最後まで信頼し期待し続けてくれたお客さまの存在でした。ピンチになったときはお客さまに助けられることが本当に多い。お客さまの期待にこたえ続けられるよう惜しみなく努力を続けていきたい」
かつて彼が現場で営業を行っていたころ。エクスクリアは市場での認知度もまだ低く供給が不足するほどの量産なんて夢の話だった。それが今では当初の数十倍という売上があり、シェアも伸ばし続けている。いまや業界の中では新参者としてチャレンジする立場ではなく、他社から追われる立場になっている。事業の立ち位置が変わっていく中で、これから見えてくる課題もきっと変わるだろう。しかし彼の目指す「お客さまのために全員が一丸となり、期待にこたえようと全力を尽くす組織」であることは今後も変わらないはずだ。