2012年10月。山中伸弥教授のノーベル賞受賞は世界を騒がせた。さまざまな可能性を持つiPS細胞が、今後の医療を劇的に変えていくかもしれない。そんな大きな期待感が世の中にもたらされたのだ。テレビから流れるこのニュースを、「へぇー、すごいなぁ」という気持ちで眺めていたのが当時の彼女である。直接自分とは関係ないテレビの向こう側のこととして。そしてiPS細胞自体よりも、日本人がノーベル賞を受賞したという事実の方に強い関心を抱いていた。
しかし3年後。彼女はこのiPS細胞と、とことん向き合うことになる。
2015年、富士フイルムはヘルスケア分野における事業領域をさらに拡大すべく、アメリカにあるiPS細胞の開発・製造会社であるセルラー・ダイナミクス・インターナショナル(CDI)社を買収。すでに世界屈指といわれていたCDI社の技術によって製造されたiPS細胞を、日本の市場へも供給しようとしていた。
主なクライアントは製薬会社だ。製薬会社による従来の医薬品開発では、動物や最終的には人体で臨床試験を行う必要があるため、実際に新しい薬が世の中に提供されるまでには非常に長い期間とコストとリスクが伴う。 しかしその臨床試験の結果を、実際に人体で行う前に、人工的に用意した人体と同じ機能を持つ細胞で予測することができれば、創薬のプロセスに大きな変革を起こし、新しい薬をもっと早く世の中へ届けることができる。CDI社と富士フイルムは、iPS細胞の技術を活用することで、臨床試験の結果を予測可能な細胞を製造し製薬会社に供給するビジネスを日本で立ち上げようとしていた。
そして、アメリカのCDI社が製造する細胞を日本の製薬業界へ広めていくことが彼女の役割だった。
大学は文系学部出身。富士フイルムへの入社動機は写真が好きだったから。医療技術分野の経験はなく、「どうして私がこの役割を?」と驚きの気持ちだったという。
しかし彼女は、あまり不安を感じていなかった。これまでも高い技術力を基に、医療分野で成長してきた富士フイルムだ。この新たな試みもきっと成功するに違いない。まして今回は、世間でも医療の世界でも注目を集めているiPS細胞。待ちに待った新しい技術として、日本の製薬市場でも需要は大いにあるに違いない。自分には今まで医療分野での経験はないが、持ち前の語学力を活かしてCDI社の技術を日本に紹介していく役割を果たすことで、日本でのビジネスを軌道に乗せることに貢献できるだろう。
クライアントとなる日本の製薬会社へ向けて、彼女は早速、新たな事業を紹介するメールを次々と送り始めた。
だが彼女の期待とは裏腹に、クライアントとすんなり商談を始めるには至らなかった。
興味を抱かれなかったわけではない。医薬品業界が期待を寄せる画期的な技術であることは確かだった。しかし、商談の依頼に対するクライアントからのメールへの反応は薄かった。
思うように反応が得られなかった彼女は、関係者のツテを頼り、なんとか日本国内の製薬会社へ直接説明する機会を取りつけた。しかし直接クライアントと向き合った彼女は、ショックを受けることとなる。
まず第一に、製薬の専門家であるクライアントが話す内容を、彼女は表面的にしか理解することができなかった。彼らが次々と口にする質問や要望が何を意図したものなのか、専門用語が頻発する会話から彼らの真意が汲み取れず、話題に上がった内容をノートに書きとめることが精一杯だった。自分なりに万全の準備を整えて商談に臨んだつもりだったが、実際にクライアントと向き合ってみると、求められる知識レベルの高さは想像以上だった。まずは対等に会話できるレベルにならなければ、商談は前に進まない。営業担当者としては至極当たり前のことかもしれないが、厳しい現実を目の当たりにし彼女の心は打ちのめされた。
また、世界的に新薬創出が難しくなっている中、日本の製薬業界では戦略的に注力領域を定めており、iPSのような新しい技術導入がその領域と合致するかどうかが非常に慎重に検討される。メガファーマを中心にしたアメリカ市場での成功事例だけを真似ても、市場環境が異なる日本では同じ手段は通用しない。日本独自の進め方を編み出す必要があった。
日本のクライアントについて理解をもっと深めるため、まずはともかく、専門家や有識者の持つ知識を身につけなければならない。彼女は本格的にiPS細胞と創薬に関して学び始めた。少し前には「すごいなぁ」となんとなく眺めていたテレビの向こう側の世界に、自分も早く追いつかなければならない。彼女はiPS細胞に関する膨大な資料や論文を徹底的に読み込んだ。アメリカのCDI社へは毎日電話やメールで質問。時には、忙しい合間を縫って直接アメリカ本社まで出向いた。コミュニケーションはすべて英語の専門用語。大学時代に語学留学を経験し英語には不自由のなかった彼女でも、その過程は困難だった。生物学的・化学的な内容であるだけでなく、発展途上の研究領域のため概念自体が新しいものも多く、理解するには想像以上の難しさがあった。
「辞書をひきながら学んでいくうちに、『昔、日本へ西洋医学を伝えた蘭学者もこんな気持ちだったのかなぁ』なんて思ったこともありました」
当時を振り返って彼女は笑う。
「新しく学ぶことは膨大で、私にとっては難解なものばかりでした。しかしこちらが説明した言葉で、そのまま日本のクライアントが動く可能性もある。そう考えると責任は非常に重いです。でもiPS細胞を用いた創薬が日本で本格的に可能になれば、創薬のプロセスを抜本的に変革し、薬を待つたくさんの人にもっと早く、さまざまな可能性を持つ薬が届けられるようになる。それで救える人が増える可能性が高まるのなら、絶対にやり遂げる使命があるのだと思いました」
今の頑張りが、日本の医療の未来を変えていける可能性だってある。富士フイルム社員としての誇りを胸に、彼女はひたすら努力を続けた。
そんな努力と想いに比例するかのように、クライアントから彼女へ相談や質問の連絡が少しずつ寄せられるようになってきた。クライアント一社一社に寄り添い対話を繰り返す中で、彼らの期待や要望を丁寧に汲み取り、課題を解決できる道を少しずつ探っていく――彼女の粘り強くきめ細やかな働きかけで、互いの理解も進んできた。「CDI社ではこんな細胞は作れる?」「この細胞でこの比較検討はできる?」コンタクトを取り続けてきたクライアントが、CDI社のiPS細胞の採用により前向きになってくれていることを彼女は感じていた。
ところが、クライアントからの相談が増えるにつれ、彼女は次のハードルを感じることになる。それは、クライアントの望む細胞とCDI社が用意できる細胞の条件が必ずしも一致しないことだった。創薬に細胞を活用する上では当然、薬が細胞に働きかけるメカニズムの特性に合わせて必要な細胞の条件が異なってくる。しかしiPS技術はまだ発展途上の段階で、クライアントの要望通りの細胞を用意できないケースがまだまだ多かった。 クライアントのニーズへ応えるべく、CDI社へ積極的に働きかけていくことも彼女の重要なタスクだった。
「CDI社と協力してクライアントの望みに応える細胞を提供していくことが事業の前進に繋がるはず」
と彼女は信じて疑わなかったが、懸命にクライアントの要望を伝えるその努力がすぐに実ることはなかった。米CDI社も世界中のクライアントやプロジェクトに対応すべく研究開発に必死に取り組んでおり、日本市場からの要求にすぐに対応をとることは難しい。日本のクライアントがせっかく期待してくれ始めているのに、それに十分応えきることができないもどかしさが常にあった。
それでも、彼女は諦めることはない。CDI社のiPS細胞を活用した創薬を日本に広めるためにも、クライアントの要望に応えることにどれだけ意味があるかを粘り強く訴え続ける。製薬会社の望む通りの細胞を用意することは、今すぐには難しいかもしれないが、その解決に積極的に取り組むことで、自分たちの細胞製造に関する技術が更に発展していくはずだ。彼女は彼らに根気よくメッセージを送り続けた。
彼女の努力は少しずつ実りつつある。2016年の冬、CDI社の中に日本市場の責任者がおかれたことを皮切りに日本からのリクエストをサポートする体制が整い、日本のクライアントからの依頼に応えるプロジェクトが具体的に進み始めている。CDI社を買収してから約1年。CDI社の協力のもと日本でのビジネスを前進させる大きな一歩を築くことが出来つつある。こうした一歩一歩の積み重ねが、今後の日本の医薬品業界を変革する大きなうねりに繋がっていく。
彼女の今の目標は、ひとつでも多くの「できます!」を増やすことだという。それはクライアントの要望に対する「できます!」であり、さらには将来、これまでは治療不可能だったものに対して医療現場でドクターが「できます!」とこたえられる治療薬が増えることだ。 初めはなぜ自分がiPS細胞を扱う担当になったのかわからなかった。でも今は、この会社の誰よりも事業への理解を深く持ち、CDI社と日本の製薬会社を繋ぐ存在は自分なのだという気概で取り組んでいる。どんなときも彼女は「どうしたらみんなで前へ進めるか、一緒に考えましょう」という姿勢を欠かさない。技術的なハードルはあれど、諦めてしまえばそこで終わりだ。
「Thank you in advance ! ―― ありがとう、よろしくお願いします!」と彼女は必ずメールの最後に感謝の言葉を書く。
「お願いした細胞の製造が技術的に可能かどうか、結果はわからないけど、前向きに取り組んでくれると信じています!」というメッセージを込めて。
iPS技術の可能性を信じ、彼女は今日もアメリカと日本の間に立ち続けている。