大量生産できるかどうかはその腕にかかっている
富士フイルムでは、培ってきたさまざまな有機合成技術を用いて独自の“化合物”を生み出し、特長ある合成薬品を数多く製造している。そうした化合物を作り出す工程は、実験室での“処方”設計から始まる。“処方”とは、どのような材料をどのような順番や条件で作るかなどを示した、言ってみれば“化合物を作るレシピ”だ。
しかし、材料と手順を示す“処方”が完成したからといって、そのままのやり方ですぐ大量生産できるほど製造は甘くない。数千リットルも入る大きな釜で生産する工場では、実験室の小さなフラスコではほとんど目立たなかったガスの発生や発熱が大事故につながりかねない。生産時に発生する廃液の処理や臭いなどへの配慮も必要になる。
彼の役割は、品質・安全・環境の観点から、実験室で設計された“処方”を、大量生産する現場に合わせて改善していくこと。いわば、処方を設計する実験室と、それに沿って大量生産を行う生産現場を繋ぐ“架け橋”となることだ。
「実際の工場設備よりも規模の小さな設備を使って “試作”を行い、どうやれば既存設備で問題なく大量生産できるかを確認します。物質を反応させるスピード、温度などの最適なバランスを見極め、必要に応じて処方に適切な修正を加えます」
実験室で生まれた製品を、大量生産して世の中に届けるためには、彼らの技術が不可欠だ。もし試作で失敗すれば、もう一度実験室に戻って“処方”の検討からやり直すことになり、予定していた後の工程や日程が台無しになってしまう。スケジュールの遅れは、事業活動にも大きな影響を与えかねない。
「実験室で作った処方の課題を“灰汁(あく)出し”するためのプロセスなので、試作する過程では失敗があっても仕方ないだろうと普通の人は思うんですよね。でも、何か月も検証を重ねて“これでいけるだろう”と確信を持って実験室が作り上げてくれた処方に対して、試作で失敗して段取りを止めることは許されないと、私は考えます」
そのために彼らは、事前に処方の情報を入手して化学反応の構造などを理解し、あらゆる角度からシミュレーションして試作時の対策を立てておく。処方自体の調整が必要であれば、処方設計の担当者に依頼して、試作前に処方を見直してもらうよう働きかける。
「確信を持って試作に臨み、一発で成功させて大量生産へ確実に繋ぐ。“失敗しない”が私の信条です。問題点を徹底的に洗い出し、責任を持って一つひとつの案件に向き合っています」
過去2年間、彼らのチームは24品種70どおりの試作をすべて一発で成功させており、それは事業の製品開発のリードタイムを短縮することに大きく貢献している。
自分が戦力外である辛さを味わった3年間
そんな“失敗しないレジェンド”彼にも、大きな挫折を味わった経験がある。試作室に赴く前の、自分とは畑違いの製造現場での3年間だ。
「製造工程の細かなメカニズムを熟知したうえで故障の原因を探ることが役割だったのですが、知識や経験がない分野で、なかなか知識習得が進まず苦労しました。辛かったのは、役に立ちたいという気持ちは強いのに、自力で解決できないうちは、全くチームの役に立てないこと。あのときは正直“おれはもうだめだ”と思いました」
苦しい3年間を経て今の試作室に異動になったとき、彼が思ったことは、「このままで終わりたくない」
しかし、3年間の挫折から立ち上がろうと新しい部署にやってきた彼は、新たな問題と直面することになった。
チームワークで、力を発揮する組織へ
彼が直面したひとつ目の問題は、実験室と試作室という、組織間の隔たりだった。実験室のメンバーが作った処方を、彼が配属された試作室が試すという近い関係であるにも関わらず、お互いの領域に踏み込まない雰囲気があり、連携がうまく取れていないことを彼は感じ取った。
もうひとつの問題は、彼が配属された試作室自体も、チームとしての力が発揮されていない状態だったことだ。スキルの高いベテランひとりに頼ってばかりで、そのほかのメンバーの力を活かしきれていなかった。
この状況をなんとか変えたいと、彼は自分から行動を起こすことを決意した。自分が戦力外であることに苦しんでいた前職場での3年間を経て、 “チームで力を発揮すること”に対する憧れともいえる確固たる想いがあったからだ。
「私としては、一人ひとりが強みを発揮しながら、チーム一体となって高いパフォーマンスが残せる職場にしたいという強い願いがありました。実験室のメンバーも試作室のメンバーも、優秀で気さくな良いメンバーが揃っている。個人の持ち味を活かしつつ、一体感を持って臨むことで、今よりもっと良い仕事ができるはずだと信念を持って取り組み出しました」
自分たちの試作室から、彼は積極的に実験室へ足を運び、交流を深めていった。今までは、実験室で完成した処方を受理してはじめて試作室の仕事が動き出すという段取りだったが、新しい案件が始まると聞けば実験室に顔を出し、事前に情報を得ることで試作室での受け入れ態勢を万全に整えた。処方が完成する前に実験室のほうで気になることがあるという噂を耳にすれば、すぐに駆け付けて相談にのった。
「それまでは、お互いの使っている機器のことさえよく理解していなかった。だから、処方をすり合わせるにしても微妙な感覚のズレがありました。処方を仕上げる段階から日々会話し、情報をすり合わせる頻度を増やすことで、お互いの仕事の精度が確実に上がっていきました」
それと並行して、彼は試作室のメンバー一人ひとりとも向き合い出した。
「自分は、なにか特別な技術を持っているわけではありません。どちらかというと私はまとめるほうが得意だと思っていたので、まとめ役に徹しました」
彼は、得意な人に得意なことをすすんでやってもらおうと一人ひとりを促し、ベテランを前にして遠慮がちになっていたメンバーに率先して動いてもらうように働きかけた。
「得意なことからやってもらい、その気になってもらう。自分の強みを活かして現場の役に立っていることを実感してもらうんです。その次に周りのサポートを受けながら、苦手なことを6割くらいはできるように目指してもらう。そうやって少しずつチーム全体のレベルアップを目指しました」
ベテランとまだ入りたてのメンバーでは、仕事の理解や技術にどうしても差が生じる。彼は、メンバーが自信を持てるように、ベテランとの差を埋めるためのサポートを粘り強く続けた。
突然訪れたピンチにとことん試されたチーム力
彼が異動して1年ほどで、実験室と試作室は、互いを頻繁に行き来する関係にまで発展した。早い段階からアドバイスし合う関係が生まれたことで、仕事の精度は一段と上がった。また、ベテランの陰に隠れていた試作室の若手メンバーも、自分の持ち味を発揮し、自信を持った表情で業務に取り組めるまでに成長してきた。
そして、これまでの成果を試されることになる、ひとつの“事件”が起きた。製造を中止していた素材を急遽供給することになり、通常は6か月かかる製造化を3か月で立ち上げなければならないという緊急事態が起きたのだ。現在の設備では昔の処方をそのまま使うことができず、処方を練り直さなければいけない。
「ぎりぎりのスケジュールの中、すぐに実験室と試作室のメンバーが集まって細かく問題点を洗い出し、一緒になって処方の改善に取り組みました」
試作室サイドで仮説を立てて、実験室のメンバーに処方を検証してもらう。実験室のメンバーも試作室にやってきて、できあがった試作品をその場で確かめ、処方の改善に活かしていく。
「試作室の熱い釜の中をじっと穴があくほど見つめていた、実験室のメンバー一人ひとりの真剣な表情が今でも忘れられません」
これまでの1年間で大きく変わって、もう実験室や試作室といった区分けはなくなっていた。ひとつのピンチに立ち向かう、ひとつのチームができあがっていた。切羽詰まった状況の中、何とか期日までに知恵を結集して処方を練り上げ、試作は一発で無事成功。彼らはチーム一丸となってこの最大のピンチを乗り越えることができた。その経験はメンバーたちの自信にも繋がり、チームの一体感がさらに強化されたと彼はいう。
「よく“万全を期す”と言いますが、私たちは事前に“万難を排す”ことを徹底したい。そのようにしてどこまでも精度を高め試作の成功を必然にするには、個々のメンバーの奮闘する努力と、メンバー同士の協力が不可欠なんです。全員のベクトルが一致したときに発揮されるチームの力は目を見張るものがあります。これからもさまざまな難題が立ちはだかると思いますが、チームの力を合わせて乗り越えていきたい」
日々現場で培われる“チーム力”が、今日も富士フイルムのものづくりを支えている。