「料理は実験と似ているんです。頭の中でイメージしながらいろいろなものを混ぜ合わせてみることで結果が出る。料理の場合は、子どもが美味しいと言ったら成功。実験では、そんなに首尾よく想定どおりにはいきませんが」
すでに30年にわたるという彼の、週末料理人としての腕は相当なものだ。料理を作るとき、彼は参考のレシピを一切見ない。ゼロから自分で考えながら美味に導く。それは仕事に対する姿勢においても同様だ。
「とにかく僕はゼロからが好き。商品開発でどんなものをどういう段取りで作ったらよいか、レギュレーションを決める段階から熱く夢中になる性質です」
そんな彼が今、事業化に向けて全力で取り組んでいるのが、「マイクロニードルアレイ」というもの。細かい針状の突起が並んだシートを皮膚に貼ることで、注射のように痛みを感じることなく、突起内部に充填された薬剤を体内に効率よく届けることができる、注射に替わる新しいドラッグデリバリーの手段だ。
「これなら人々を注射の痛みから解放することができるし、医療従事者がいなくても貼るだけで薬剤を投与できる可能性がひろがる。途上国には、ワクチン投与ができず病気にかかって亡くなっている方がたくさんいます。注射でのワクチン投与は医療従事者が行わなければなりませんが、この新しい手段が確立できれば、家に配って自分で貼るだけでワクチン投与できる世界だって目指せるかもしれない。医療従事者が不足している途上国でのワクチン拡大にこの技術がきっと役に立つはずだと、WHOなどの機関からも商品化が期待されています」
最初に彼がこのマイクロニードルアレイと出会ったとき、開発は継続か打ち止めかの岐路に立たされていた。
「開発を止めるか進めるか見極めを任せると言われて。そんなときに成長ホルモン分泌不全性低身長症を患う子どもたちの話を耳にしました」
成長ホルモンの経口摂取は難しく、分泌不全性低身長症の場合、どうしても注射剤を毎日のように長期間投与する必要がある。
「この分野に詳しい医師を訪ねると、『毎日注射を打つため、辛い思いをしている子どもたちやお母さんが世界中にいる。もしこれができたら、絶対に患者さんにとって福音だからきっと作ってくれ』と」
医師と議論を交わしたその病院で、彼は実際に成長ホルモン分泌不全症で通院する母子の姿を見た。年齢なのか病気のせいなのか身体が小さい子どもに付き添っている母親。毎日休むことなく注射を打たれる子どもの姿にショックを受けた。
患者にとっての“福音” ――医師のその一言が彼を突き動かした。
実はこれまでにも、彼には熱い想いを持ってゼロから取り組んだ商品があった。それは、発症初期でもインフルエンザのウイルスを検出できる検査装置だ。
「娘を病院に連れて行ったのがきっかけでした。辛い検査をしても、場合によってはインフルエンザか判定できない可能性がある事を知りました。なぜそんな理不尽なことがあるのかと。当社の高感度化技術で解決できるはずだと会社へ商品化を提案しました」
開発を進める上で、彼はエンジニアとは思えないフットワークの軽さで、インフルエンザに詳しい医師を訪ねて全国を飛び回り、ときにはインフルエンザ研究者交流会というディープな催しにも参加。医師や研究者から意見やさまざまなアドバイスをもらった。多くの人たちの協力を得て完成した検査装置は2011年秋に発売され、すでにその販売台数は1万台を超えている。
困っている人たちを救いたい、先生たちの期待にこたえたい――これが彼の“ゼロからの挑戦”の原点。その経験が背中を押した。先生と患者さんが本当に望むものならば迷うことはない、実現を目指すべきだ。彼はマイクロニードルアレイの「開発続行」を選択した。
最初に直面したのは技術的なハードルをクリアする課題だった。
「シート上に並んだわずか100〜2,000μmという髪の毛の太さ数本分というミクロの長さの針の先端に、如何に効率よく有効成分を充填できるかが大きな課題でした。身体に入って溶ける針先部分はシートの全体のうちたった1%の体積ですが、その先端1%だけに必要な薬の成分すべてが集中して固まるように成形すること。さらに、細菌や発熱物質が入らないよう、完全な無菌状態で製造を成し遂げなければいけない。とても難しい技術ですが、これを成功させられるかどうかが、マイクロニードルアレイの行く末を左右する勝負どころでした」
当初のメンバーはたった数人だったが、商品化を叶えたいという共通の目標に向かって互いを励まし合い、昼夜問わず必死に実験に没頭した。さまざまな形の鋳型を作っては実験し、失敗しては分析を踏まえて最初からやり直す。作った試作品は100を超えた。2011年の東日本大震災では計画停電の影響を受けながらもひたすら実験を続け、ついに針先部分のみにほぼ100%薬を充填することに成功。マイクロニードルアレイの開発は本格的に事業化を目指すステップへと進んだ。
数名だったチームは数十人規模に急速に拡大し、彼はそのチームリーダーとなった。そこで、今までと違ったプレッシャーが彼を襲う。数人の仲間と自分たちの熱意を原動力に開発を進めていたころとは異なり、今度は多方面の職場から集められたメンバーをリーダーとして束ね導くというタスクが加わったのだ。実験や評価を専門とする研究員だけでなく、事業化を推進するスタッフや、試作品製造を請け負うグループ会社のメンバーなど、初めて顔を合わせる面々も多い数十名のチームだ。
日々降りかかる判断へのスピードが要求される一方で、さまざまな価値観を持つメンバーを、同じゴールに向かってリードしなければならないという新たな壁にぶつかるようになった。
自分が熟考し決断するだけではだめで、チーム全員の知恵や能力を最大限に引き出し、さまざまな選択肢からベストな答えを導いていかなければならない。他社や市場など刻々と変わる状況を総合的に判断して下した結論だとしても、その情報をタイムリーに共有できていないと、彼の判断に対して現場から不平不満が出ることもあった。
「まったく新しい商品を作るというのは、完成品がないわけだから一切答えのない世界。誰も答えを持っていない暗闇の中をリーダーとしてどちらへ進むのか。判断するにも絶対的な裏付けが毎回あるわけではなく、それでも『こっちだろう』と直感を信じて決断しなければならないケースもありますが、その意図をきちんと伝えることが不可欠です。共有化が不十分で、『何でこっちに進んだんだ』と後からつるし上げられたこともあります(笑)」
少人数で想いをひとつに実験していたころとは異なり、チームの人数が拡大したことで、普段は直接顔を合わせないメンバーも増えた。待っている人々のために絶対やり遂げなければという強い想いがある一方で、自分一人が突っ走っているのではないかと不安にかられることもあった。
そんな彼を救ったのは、インフルエンザ検査装置の開発の際から関係を築いてきた医療現場の医師の存在だった。
「自分が現場に出るだけでなく、メンバーを連れ出し、先生たちとのパイプを積極的に繋ぐことに注力しました。すると、メンバーのやる気が変わってくるのが分かったんです」
医師が本気でこの商品を待ち望んでいることを目の当たりにしたメンバーに、『開発を止めてはいけない』と、共通の使命感が生まれた瞬間だった。
「さまざまなスキルや価値観を持つメンバーが結集して考えれば、いろいろな角度からアイデアが生まれるので成功する確率が高まり、選択できるオプションも増えます。チームの一体感が感じられるようになってきました」
チームで導き出した答えで社内を説得して前に進めるのも彼のリーダーとしてのタスクだが、そのときも、同じ想いを持つ全国の医師たちとの強い絆が、新たな挑戦の必要性を訴える彼を強力に支えている。
「社内で開発を止める進めるの話が出たときも、いつだって切り札になるのは、現場の先生たちが待ち望んでいるという生の声です。まったく新しいものに着手するとき、上からは『本当に意味があるのか』と必ず問われます。今までにない商品の必然性に納得してもらうことはとても難しいし必ずしも全員が積極的に応援してくれるとは限らない。特に医薬品は判断が難しく、一筋縄では前に進めません。インフルエンザ検査装置のときも、このマイクロニードルアレイの開発も、お蔵入りになりかけたことがありますが、先生たちの存在が私たちを度々窮地から救ってくれています。その想いに全力でこたえたい」
現在、マイクロニードルアレイは人での臨床研究に向けて準備が進められている。レギュレーションを定めて商品化の認可を得るまでには、まだ少なくとも数年はかかる見込みだ。
「事業化の目処が立たなくなってしまっては意味がない。今が勝負のときだと思っています。残された会社生活の中で、このマイクロニードルアレイをなんとかして世の中に送り出したい。それが今の僕の夢であり挑戦です」
決して夢は夢で終わらせない。彼の挑戦は続く。